食の好み(わさび)
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概要
食の好み(わさび)は、辛味というより鼻にツンと抜ける「刺激(ケメステシス)」の快・不快に関する個人差を含みます。わさびの主成分アリルイソチオシアネート(AITC)は、味蕾の甘味・塩味などの受容体ではなく、三叉神経系の受容体を刺激します。結果として涙や鼻水、鼻腔の灼熱感が起こり、これを快い刺激ととらえるか不快ととらえるかは人により異なります。
こうした嗜好は遺伝要因と環境要因の相互作用で形成されます。遺伝要因には刺激物質に反応するイオンチャネル(TRPA1)や、同時に感じる苦味の受容体(TAS2R38)などが含まれる可能性があります。環境要因には、食文化、反復曝露(食べ慣れ)、社会的学習、年齢による感受性の変化などが含まれます。
科学的には「わさびが好き/嫌い」という単一の性質ではなく、刺激の強さの知覚、苦味・香りの統合、学習による好き嫌いの変容といった多面的な表現型として扱われます。双生児研究やゲノム関連研究(GWAS)は、食嗜好の遺伝率が中等度であることを示していますが、個別食品(わさび)に特化した推定はまだ限られています。
健康との関連では、わさび嗜好それ自体は疾患ではありません。ただし、刺激の強い食品摂取が鼻炎や涙腺反応を一過性に誘発することがあり、感受性の高い人では不快症状として認識されることがあります。嗜好形成の理解は、栄養教育や食文化の多様性理解に役立ちます。
参考文献
- Mustard oils and cannabinoids excite sensory nerve fibres through the TRP channel ANKTM1 (TRPA1)
- Genetic and environmental influences on food preferences in adults (twin study)
- Genome-wide analysis links genetic variants to food and beverage liking
知覚のメカニズム
わさびの主な刺激はアリルイソチオシアネート(AITC)によるTRPA1イオンチャネルの活性化です。TRPA1は三叉神経終末に発現し、化学的刺激を電気信号に変換します。この経路は味覚(味蕾)ではなく、痛覚・温度感覚に近い化学感覚(ケメステシス)に分類されます。
AITCは細胞内に入り、TRPA1のシステイン残基を共有結合的に修飾してチャネルを開口させます。開口によりカルシウム流入が起き、強い刺激感、鼻腔の灼熱感、涙や鼻汁などの防御反射が誘発されます。刺激は数十秒で減衰しますが、反復すると感受性が一時的に低下(脱感作)し、刺激を「心地よい」と再評価する人もいます。
わさびの香りは、AITC以外のイソチオシアネートや揮発性成分の混合で構成され、嗅覚と三叉神経刺激が統合されて独特の「抜け感」を生みます。香り・刺激・味(苦味・わずかな甘味)の相互作用が嗜好に影響します。
個体差はTRPA1の機能差、三叉神経の閾値、粘膜の状態(炎症や乾燥)、温度、食品マトリクス(脂質やデンプンが刺激を緩和)により変動します。同じAITC量でも寿司や蕎麦、ソースなどの形態で知覚は大きく異なります。
参考文献
- TRPA1 mediates the noxious effects of mustard oil and other irritants
- Chemesthesis and the chemical senses: psychophysics of oral pungency
遺伝的要因
TRPA1遺伝子の多型は、AITCなどの刺激に対する感受性の個体差に関与する可能性が示唆されています。ヒトでの機能多型は痛覚や冷感の違いと関連が報告され、化学刺激の強度評価にも影響する可能性があります。わさび特異的な大規模研究は少ないものの、機序からの推論は妥当です。
TAS2R38は苦味物質(PTC/PROPなど)に対する感受性を規定する代表的受容体で、機能型(PAV)を持つ人は十字花科の苦味を強く感じやすいとされます。わさびにはイソチオシアネート由来の苦味も含まれるため、苦味感受性が嗜好の一部に影響し得ます。
双生児研究では、味・におい・刺激の嗜好は概ね中等度の遺伝率(20–60%程度)を示します。特に苦味・辛味関連は30–60%の範囲という報告があり、残りは共有・非共有環境の影響です。
近年のGWASでは、多数の食品嗜好に関わる遺伝子座が同定され、感覚受容体だけでなく報酬系・学習・代謝関連の寄与も示されています。ただし個々の効果量は小さく、予測可能性は限定的です。
参考文献
- Genetic variation in a taste receptor (TAS2R38) affects PTC tasting
- Genome-wide dissection of food liking traits in the UK Biobank
- Genetic and environmental influences on taste preference (twin data)
環境・文化要因
わさび嗜好には文化的曝露が大きく影響します。日本の寿司・蕎麦文化では早期から反復的に接する機会があり、学習と社会的規範によって受容性が高まります。海外でも寿司の普及に伴い、わさび風味のスナックなどを通じて馴化が進んでいます。
反復曝露は三叉神経刺激の主観的強度を低下させ、快さを高めることがあります(脱感作・慣れ)。同時に脂質や甘味を伴う食品と組み合わせることで刺激は和らぎ、初学者にも受け入れやすくなります。
年齢によっても感受性は変化し、子どもは刺激に敏感で忌避しやすく、成人になるにつれて新奇性探索や社会的要因で受容が広がる傾向があります。
健康状態(鼻炎、口腔乾燥)、飲酒・喫煙習慣、同時摂取する食品の温度やテクスチャ、場面(外食・社交)なども嗜好の表出に関与します。
参考文献
- Acquired tolerance and liking for oral pungency with repeated exposure
- Rozin: The acquisition of a preference for chili pepper
研究の限界と注意点
わさび特異的な嗜好の遺伝学研究はまだ限られており、多くは関連機序(TRPA1)や類似刺激(カプサイシン、マスタード)からの類推です。したがって、効果量や遺伝率の精密推定には不確実性が残ります。
嗜好は時点依存で変動し、測定法(自己報告、官能評価、摂取頻度)によって結果が異なります。文化背景の違いも交絡しやすく、国際比較には注意が必要です。
遺伝情報を用いた個別化提案は現時点でエンタメ色が強く、臨床応用は限定的です。嗜好は学習・経験で十分に変えられる可塑性を持ちます。
健康との関係では、わさびの適量摂取は一般に安全ですが、粘膜刺激が強いため胃腸や鼻腔に持病のある方は量や頻度に配慮が必要です。加工品の「わさび風味」は西洋わさびや香料主体である点にも留意しましょう。
参考文献

